この時期になると必ずでてくる風物詩の小学校かけ算順序問題。4個ずつ5人に配るというのは
4×5 = 20
であり、
5×4 = 20
は間違いだと言うことだ。これは
4[個]×5[人] = 20[個]
5[人]×4[個] = 20[人]
となるからだそうだ。非常に面白いと思う。
ここで重要なのは、被乗数では個や人が単位として認められているのに、乗数の単位は認められないという点だ。もしくは、被乗数の単位は自動的に乗数の単位で割られた単位が設定されるとも定義出来る。つまり、
4[個]×5[時間] = 20[個]
4[個]×5[/個] = 20[個]
これが正解だ。それが小学校教育の定義なのだから、それはそれで問題ない。そういう系なのだ。
すなわち、小学校では時速20kmで2時間走る距離は
20[km/h] × 2[h] = 40[km/h]
だ。時速20kmで2時間かかる距離は時速40kmだ。
それが、間違いだのどうのこうのではなく、そういう定義の系なのだから、そうなのだ。行列は何故可換ではないのか?そうなる乗算の定義の系だからだ。「1+1=0」は何故なのか?0,1の集合が和に関して群の系だからだ。それに従えと言うだけだ。
問題の本質は何なのか?
この問題を批判する方、擁護する方、ともに大きな勘違いをしている、いや、前提とすべき事を見ようとしていない気がするのだ。
まず、学校教育は何の為にあるのか?これは紛うことなく、未来の日本人の育成である。では、未来の日本人とはどのような人物が求められているのか?
誰も口にしようとしないが、日本教育において、「目上(先生)に従順な奴隷」が求められる人物像であろう。個性などはいらないし、極端に優秀な人材もいらない。村八分。日本社会はそういう社会だ。
最低限の国語と英語が出来れば、後は従順な奴隷であればあるほどよい。何も考えない無能な人間であればある程、素晴らしい。逆に支配層の人間は自分たちで教育を施せるから、学校教育に頼る必要はない。従って、それを問題にする必要がない。残念なことに、それが日本教育だと思う。
私も小学生の頃、「1-2はどうなるか?」と当てられて「-1」と答えたら、「何言ってんだ?」と返された。答えは計算出来ないであった。記憶力の悪い私が未だに覚えている小学校1年生の頃の記憶だ。非常に不満に思ったのを覚えている。
だが、大人になった今は、教師が正しかったと分かる。
数学的に言えば、「1-2」が「-1」になるには、少なくとも対象とする系において、-1が定義されていないといけない。自然数の世界だけの話ならば、「-1」は存在しない。あの時、問題は自然数の範囲だけだという前置きがあったかどうかの記憶は無いが、小学校において、自然数と0ぐらいの世界しか存在しないという前提があるのならば、数学的に私が間違っている。
そして、何よりも最大の間違いは、「教師がその答えを求めていなかった」点だ。教師が求めていないことを答えれば、当然それは間違いだ。教師が赤を黄色と言えば、その教師の前では赤を黄色と答えるのが正しいのだ。
かけ算順序の問題も、教師がそのように書かなければいけないと思っているのならば、そういう系で教えているのならば、当たり前だが、それに従わなければ間違いだ。
落ちこぼれる生徒も、浮きこぼれる生徒も、問題は学力ではなく、教師の思惑の外に出るから駄目なのだ。
さて、問題の本質はかけ算の順序なのだろうか。