プログラムdeタマゴ

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ExcelやWordに判子の無駄はなくならない

「証明書が必要だって言うから、証明書取りに行くじゃん?」

「せやな?」

「で、その証明書を発行するのに判子が必要だっていう。」

「よくあるな。」

「しゃーないから、判子持ってって証明書もらうじゃん?」

「うん」

「で、その証明書持ってったら、また判子が必要だって。」

 日本でよくある光景。そんな日本で、より頭が痛くなる記事を見つけた。

forest.watch.impress.co.jp

 Lhaplusが根強く1位を保ってるのも驚き(その上、7-zipが14位でだいぶ離されている)だが、こんなソフトが出てることも、そしてそれのダウロード数が増える日本も頭が痛い。もう一週回って、こういう判子を押せる様に、親切にしてあげるエンジニアの方が悪いんじゃないのかという気がしてきた。

 未だに、こんな↓判子の画像をWordとかExcelとかに普通に貼らせるからね。自分がこの都市伝説の様な作業をするとき、軽く興奮すら覚える。

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 しかも、普通の企業なら、提出ファイルは誰がチェックしたかとか残るシステムが入ってるから、完全に冗長。加えて、判子がないと差し戻された暁には、軽く絶頂を迎え、アヘ顔を晒すことも辞さない。実に気持ちが良い。

 判子に限らず、印刷することを目的にして、こんな↓感じに面倒くさく表組みされたExcelやWordファイルへの記入とかも、都市伝説じゃなくて、至って極普通のことだ。

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 ご丁寧に判子を貼る場所も用意されている。見覚えがある人なら何処に貼るか分かるだろう。

 

言うだけ無駄で、変わることはない

 情報処理をする人からすると、こういった不合理や無駄は非常に阿呆らしく見える。役所仕事だの批判の対象になることも多い。

 だが、断言しよう。変わらない。言うだけ無駄である。むしろ、言うだけ白い目で見られるだけだ。ネ申エクセルもなくなることは無いだろう。問題視する方がキモイのだ。

 

 例えば、判子画像は単純にやめれば良いだけだ。まともな企業なら、情報の管理をする義務がある以上、こういった提出物の承認フローを管理するシステムが導入されているはずだ。判子なんていくらでも複製可能なデータに信頼性はない。

 社外秘、みたいな判子についても必要ない。タイトル部分などに社外秘、NDAなどと書いておけば十分だ。画像であれ何であれ暗号化されていない電子データなどいくらでも改変出来るのだから、それをもって変更されていないかどうかなど分からない。

 それどころか、むしろ画像の様に後から処理しにくいデータで管理するべきではない。社外秘、NDAなどの文字情報の状態なら、PDF化する際に処理を加えて、たとえばフォントの中に情報を埋め込むことも容易だ。判子画像の状態でも不可能とは言わないが、難易度は上がる。管理する情報は平易である程良い。

japan.cnet.com

 ということを、上の人間が納得しないといけないので、日本では絶対に後数十年はなくならない。彼らは、判子があれば信用出来るなんて甘いことは当然考えてはいないが、判子がない物はそもそも視界に入らない。なんせ、日本のトップ達はパソコンなんて下賤なもの触ったこともないが、指示を出すのは天才な高貴なお方達なのだから。  

 さて、上の人間は承知しないだろうが、それでも判子に関しては割と納得してくれる人はいる。(白い目では見られるが)

 しかし、こっちが問題だと納得してくれた一般人は未だ誰一人いない。

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 私が思う問題点は大きく以下の二つである。

  1. 入力が面倒くさい
  2. プログラムで情報を抜き出すのが面倒くさい

 このフォーマットは基本的に、「読む側」の事しか考えておらず、書く、プログラムで処理するということが面倒くさい=コストとなる。

 まず、入力が面倒くさい点について。例えば、少しでも面倒くさくない入力はこういう状態だ。

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 先ほどと違って、上から下に入力するだけである。横に見る必要はないし、構成の意味を考える必要が無い。とにかく、上から下に入力していけば良い。見逃すことも少ない。

 しかし、普通の人は、元の表組み状態を面倒くさいと思わないので、この理屈は通じない。むしろ、縦スクロールが入る分、面倒くさいと感じたり、冷たいと感じる様だ。

 次に、プログラムで情報を抜き出すのが面倒くさい、に関してだが、普通の人間はそもそもプログラムはおろか、情報処理をしない。だから、この書き方は後で情報処理したい時にきっと困ることになる、と言っても、「ふーん、で?」で終わりである。関係ないのだ。

 しかも、実際、殆どの書類は今後何らかの情報処理されることもなく、どこぞのフォルダの文鎮と化してお終いである。一回見られてお終いなのだ。効率化というのは、何度も行われるからこそ意味を成す。実装に1日、効率化は一人1分(しかも1回しかやらない)なんかだと、500人は入力しないとペイしない。実に無駄な効率化だ。

 さらに、こういうことを実現しようと思えば、やってくれる人が居るならそれでいいが、誰もいないなら、そのための余計な勉強までしなくてはならない。

 そもそも最近はパソコンなんて、時代遅れな骨董品を使える方が稀だ。ただでさえ、社会に出たら強制的に使わされる苦痛を味わされるのに、更にまだ勉強しろというのは、流石にちょっと拷問に近い行為だとは思う。(感覚が分からないなら、80年代のワークステーションを強制的に使わされて、かつ、BASICやCOBOL、ないしパンチカードを覚えさせられると考えてみよう。吐き気がしてくるはずだ。)

 誰が、そんな将来役にも立たない(っていうか淘汰される)パソコンの勉強をするというのだ。それぐらいなら、速記や会計の勉強をした方がマシである。

 

 というわけで、言うだけ無駄である。今後も変わらないであろう。パソコンは手書きの清書機械でしかないのだ。

 むしろ、機械学習の性能が上がって手書き文字認識精度が上がったせいで、書類は手書きに回帰する可能性すらあると言って良い。